江美城本丸から出土した金箔瓦は鯱瓦と鬼瓦である。鯱瓦については、顔面のうち鼻から口、顎ひげ、胸ひれにかけて漆が見られ、歯の部分にのみ金箔が残っていた。耳部も含め、他の事例から考えて漆の塗布された部分には金箔が貼られていたと考えられる。
これらの瓦は文様から、吉川広家時代に構築されたと考えられるが、この時期は豊臣政権が確立し、天正18年(1590年)を境にして金箔瓦を使用する城郭が全国規模で展開している段階とされ、こうした状況下、江美城においても金箔瓦が導入されたことが窺える。特に江美城同様に鯱瓦などの役瓦のみに金箔を貼った他の城郭をみると、9城のうち3分の2が九州、残りが徳川家康領国と接する地域に分布し、この両地域を重要視していたとされる。
一方、豊臣一門同様に軒丸・軒平瓦まで金箔を貼る城郭に広島城がある。ここは毛利氏が築いたものであり、地域支配の拠点として一門衆と同様の扱いをし、最重要城郭であると位置づけていたと考えられる。江美城は毛利一門の吉川広家領にあり、東端に位置する。金箔瓦の建物が構築する前段階、天正13年(1585年)に豊臣方と毛利方の中国国分で江美城はこの境界に位置し、日野往来などの陸上交通及び日野川中流域の河川交通の要衝であった。毛利一門にとって江美城は重要な拠点であったことが窺える。
こうした背景の中、金箔瓦が導入されたことについて、「吉川支配の安定性を効果的に領国内外へアピールするため、山陽方面や大山を行き交う人々の目に触れることの多かった江美城に導入されたのではないか」とする意見がある。しかし広家の拠城として築かれた米子城において金箔瓦は出土していない。その移行前の富田城にもみられず、広家が何故、一支城に過ぎない江美城に金箔瓦を導入したかという説明には物足りない。日野川流域で確認されている石垣を持つ各城郭との比較を通じて、地域的な江美城の位置づけを検討するとともに、全国的な視点で金箔瓦出土城郭の意味を探りながら、新たな観点が必要なのであろう。
江美城跡公園緑化事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 第4章(2024.3 江府町教育委員会)
鯱瓦復元図